《追悼 益川敏英さん》【後編】若者が科学に夢を持てる国に
益川敏英/聞き手・竹内 薫(科学作家)
焼夷弾不発で九死に一生を得る
竹内 先生の子供時代にさかのぼるのですが、戦争のとき、目の前に焼夷弾が落ちてきたという話をどこかでされてましたね。それは記憶に鮮明に残っているものなんですか?
益川 児童心理学が教えるところによると、4、5歳ぐらいのときの記憶はムービーじゃなくてスチール写真みたいなものだそうです。
確かにそのとおりで、僕の場合は2枚の写真が脳裏に焼き付いている。
焼夷弾が大きな音を立てて自宅の2階を突き破り、土間の上を目の前で転がっている。そういう写真が1枚。
竹内 なるほど。名古屋にも大空襲があったんですね。もし、その焼夷弾が不発でなかったら......。
益川 まあ、僕は死んだか、大やけどを負ったか、どちらかでしょうね。一緒にいた両親も無事ではすまなかったと思います。
竹内 もう1枚の「スチール写真」は?
益川 家財道具を積んだリヤカーの上に僕がちょこんと乗っけられて、両親が必死の形相でそのリアカーをひっぱってる。その写真が2枚目。
竹内 僕の母親は九州の八幡製鉄所の近くに住んでいたのですが、空襲では真っ先に基地か工場が狙われると言っていました。名古屋にも基地か大きな工場があったのですか?
益川 その当時住んでいた場所がよくなかった。すぐ近くに陸軍の高射砲陣地があって、B29が来るとポンポン迎え撃つわけね。
日本の高射砲は7000メートルぐらいしか届かないのに、B29は高度1メートルを飛んでる。それじゃ、歓迎の花火を打ち上げているみたいなものですよ。ここに陣地があるよと教えているわけだから、そこをめがけて焼夷弾を落としていく。
竹内 ご自宅に落ちた焼夷弾が不発でなかったら、ノーベル賞の歴史が変わっていたわけですね......。