世界に直面した気分で読んだ名著 高原英理
町田康『告白』
内田百閒『ノラや』
ニーチェ著 手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』
町田康の『告白』は、三島由紀夫の『金閣寺』同様、現実にあった事件をもとに自由に語りなおしたもので、中国古来の「小説」(国家歴史にかかわる「大説」に対して市井の小事件を伝える)の基本である。であるのだが、三島と違って、町田康の準備するナレーターは、冒頭いきなり、主人公の経歴に「あかんではないか」と突っ込みを入れる。語りがすべてを引き回す、それを読者が面白がってついてゆくとなんだか近代人の意識の大陥穽を覗き込まされ、大歓声をあげたくなる一大劇場のようだった。
ものを考えれば考えるほど何をやっても失敗し陥れられ侮蔑される『告白』の主人公熊太郎の屈辱と暴発に呆れつつ心添わせて読んだ。そんなことではあかんではないか、と一方で思いながら、熊太郎、もっと殺せ、と心震わせたよい記憶である。
内田百閒の『ノラや』は一から十まで情けない。飼っていた猫ノラがいなくなり帰ってこない。百閒はそれを悲しみ、毎日案じる。雨の日など、こんな中でノラは濡れてつらいに違いないと考えて泣く。毎日泣く。子供のようだ。これを読むまで私にとって百閒という人は気難しく、また悪夢を巧妙に小説化できる怪物的な作家だったのだが、この心弱いたわいなさに百閒という作家のもうひとつの大きな可能性を知った。思えば『冥途』から始まる悪夢的小説の語り手の怯えも、よそよそしい世界に直面したときの気弱な子供特有のそれだったのだ、と得心したのである。
『観念結晶大系』という作品刊行の約束を得、旧稿を改稿しているとき、参考資料として手塚富雄訳の『ツァラトゥストラ』を読み返した。これはかつて中央公論社版『世界の名著』の一冊として出ていたもので、そちらを読んだのが最初だったが、文庫となってより手に取り易くなったので推薦する。他にも『ツァラトゥストラ』の翻訳は多いが、この訳は各章ごとに要約と解説が入っていて、読了するとニーチェについての講義を受けたような気になれる。ニーチェは世にいう中二病の元締めのような哲学者だが、だからこそ一度は取り憑かれたい。世界から、否、と言われたような気持のときは特にだ。
高原英理さん(内匠淳サロン撮影)
町田康