八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」(上)

【連載第一回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

「創元」.jpg

四十三歳、働きざかりの新しい計画

心身爽快を覚え、新しい仕事を計画している小林秀雄がここにはいる。小林は当時四十三歳の働きざかりなのだから、不思議はないともいえる。敗戦をとうに見越して、心の準備をすでに済ませていたのか。玉音放送に小林が聴き取ったという信念のおかげなのか。「希望と勇気とで一杯」とは、自分を慕っている後輩の文学者を励ます意図もあるのか。私の中に漠然とあった、戦後の喧騒を嫌悪し、口を閉ざして沈黙し、「モオツァルト」執筆に専念する小林秀雄という像とは別種の小林がここにいることだけは間違いなかった。

「季刊雑誌」とは、小林が編輯にあたる高級高額雑誌「創元」のことだろう。「モオツァルト」が掲載された「創元」の第一しゅうが刊行されるのは昭和二十一年(一九四六)の年末と、ずいぶん先のことだ。敗戦直後に企画だけはもう存在していたのか。それも季刊というスピードを想定している。実際の「創元」は第二輯を昭和二十三年(一九四八)十一月に出し、そこで力尽きた。「三号雑誌」にも及ばない。季刊どころか、「隔年」というマイペースだった。

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