八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」①
鎌倉文士たちが見た、敗戦前後の小林
敗戦前後の小林の姿を知るには、鎌倉在住の文士たちの日記が一番いい。大佛次郎、高見順、吉野秀雄、島木健作が日記を残した。日記から垣間見える小林の姿と、小林自身の言葉をここでは重ねて見ていく。
八月十七日には、その島木が病死した。昭和十年代の鎌倉で小林が親しくした同世代の文士は、なんといっても島木と林房雄だった。二人の転向文学者は、島木は大のつく生真面目、林は騒々しくて大雑把な性格とまったく対照的だが、どちらとも小林はウマがあった。林とは大陸や満洲までよく旅をし、恰好の対談相手だった。島木はすぐそばに引っ越して来たので、しょっちゅう家を行き来した。骨董仲間であり、本の貸し借りをする。小林は執筆中のモオツァルト、梅原龍三郎、ドストエフスキイについて島木に熱っぽく語っていた。ドストエフスキイの全集を島木から借りてもいる(拙著『満洲国グランドホテル』参照)。残念なことに、島木の日記は六月五日までしかない。肺結核が悪化したのだろう。小林は「小生は枕頭にあつて様々な解釈を絶する死の単純さに今更の様に目を見張りました」と、島木の死を北原に報じた。
高見順は、島木の亡骸を病院から扇ヶ谷の自宅まで担架で運ぶ小林、川端康成、久米正雄、中山義秀らの道中を日記に書いた。翌十八日のお通夜は、「小林秀雄が近所のよしみで万端の世話を引き受けていた」。十九日の葬儀では、鎌倉文士の最長老である里見弴が涙をたぎらせて告別の辞を述べた。
「葬儀屋が来た。リアカーに薪が積んである。その上に棺を載せ、ひっぱって行くのである。上森[子鉄]氏、林房雄、小林秀雄、三浦氏[島木の知人]が棺に従った。名越の焼き場まで、棺は炎天にさらされて行くのである。――一昨夜の担架といい、今日のこのリアカーといい、正に敗戦の象徴と思われる。そしてまた文学の道で戦い敗れた島木君らしい最後とも思われる。/ラングーンで見た、死体を大八車に載せて炎天の下を引張って行くインド人の葬式を思い出した。その「野蛮」にあきれたことを思いおこした。その「野蛮」は今や私たちの姿であった」