八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」①
北原武夫と宇野千代夫妻
敗戦の翌々日に出された北原の手紙が小林の家に届くまで、十日間もかかっている。敗戦国日本は混乱のさなかにある。北原武夫は小林より五歳年下の作家で、昭和十六年(一九四一)に「文學界」に連載予定だった長編小説は「校了間際で当局の忌諱に触れ」(北原『天使』あとがき)発表できなかった。「文學界」連載を勧めたのは河上徹太郎で、小林ではないのだが。小林が「宇野さんによろしく」と書いているように、北原の妻は十歳年上の宇野千代だった。北原・宇野夫妻は、北原の父が隠居する栃木県の壬生町に疎開していた。
実は、この手紙を目にするのは初めてではなかった。十数年前に壬生町立歴史民俗資料館で、企画展「北原武夫と宇野千代 華麗なる文学の同伴者」が開催された時に目にしていた。文学展を見るためだけに、わざわざ栃木まで行ったりはふつうしない。北原の生誕百年の展覧会というのが嬉しくて、出かけたのだった。北原武夫はいまや完全に忘れられた作家だが、私は高校生の時に「平凡パンチ」「PocketパンチOh!」などの雑誌で北原の官能小説を読み、それから読者となった。北原が官能小説を書きまくったのは、宇野と一緒に経営していたスタイル社が破産し、その個人負債をペンで返済するためだった。借金を完済した後で、宇野とは離婚した。小説家としての才能は宇野に及ばないが、不器用なほどの純文学信奉者であり、昭和十年代の『文学と倫理』(中央公論社)、『創造する意志』(同)、敗戦後の『文学の宿命』(実業之日本社)といった評論集を読むと、小林秀雄の圧倒的な影響下にあるとわかった。初めて目にした小林の北原宛ての手紙には、とても大事なことが書かれていると感じ、持っていたメモ用紙に文面の一部を記録までした。そこまではいいのだが、その後、メモは紛失、展覧会の図録も家の中で行方不明になってしまった(図録には小林の手紙は不掲載)。あの時の手紙に、横浜で再びめぐり会えるとは。