八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」(下)
「二十三夜塔」を読んでみると......
小林が頂戴した原稿と同じかどうかは不明だが、「二十三夜塔」を読んでみた。これは日本全国各地の民俗行事、民俗伝承を紹介しながら古来の日本人の信仰がいかなる姿をしていたかを探る考証随筆であった。いつもの柳田ともいえる。話題はどこにでもある道祖神や二十三夜の石塔が、「一種の心の里程標」だったことが明らかにされていく。文字を知らない人がまだ多かった時代、月の形は暦の代わりを果たしていた。
「たとえば今から四百年近くも前の、奈良の大きなお寺などでは、月々の十七日から始めて、二十三夜まで七夜の間、毎夜の月を拝んでこれを七夜待といい、その晴れ曇りと、月のお形のいろいろによって、一年間の吉凶を卜したことが多聞院日記という本には書いてある。その月がいよいよ遅く昇って、暁に残る二十三日の夜、もう一度重い祭をするというのもあり得ることである。それが私は我国に二十三夜様という祭の、永く伝わっている理由だと思う。(略)どのように新しい文化は進み加わって来ても、古いこの御国の神ながらの道というものは、尋ねて行けばまだ必ず見つかるのである」
これは編輯者の判断次第だが、雑誌論文としてはインパクトに欠けるのかもしれない。小林がどう判断したかはわからない。小林の雑誌でなければ折口の雑誌にという柳田の選択には、柳田の矜持が感じられないでもない。「二十三夜塔」を小林の編輯判断でボツにしたとしても、それで柳田と小林の間の信頼関係が損なわれることはなかった。創元社からは相変わらず、柳田の本は出続け、何冊かは「創元文庫」となり、読み継がれた(創元社が昭和二十九年に傾くと、そのラインアップは角川書店の角川源義に譲渡される。角川文庫が多くの柳田本を揃えたのは、元はといえば小林の柳田評価なのだ)。大部の『柳田国男伝』(後藤総一郎監修)を見ると、戦前の創元社の書籍広告では、「現代の本居宣長にも比すべき碩学」(「文藝春秋」昭和15・10)として柳田が謳われていると紹介されている。小林にとっての柳田は「現代の宣長」だったのだろう。