八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」(下)
公の戦後第一声「歴史の見方」
八月十五日以後の小林秀雄の動向を追ってきた。当初の目論見では「創元」第一輯の発刊まで漕ぎつける予定だったが、道半ばだ。この十二月八日には、大阪で講演を行なっている。小林の「戦後第一声」というなら、この講演がもっともそれらしい。公的な「戦後第一声」であることも間違いない。「歴史の見方」と題されたこの講演の存在は、郡司勝義が「一九六〇年の小林秀雄」(「文學界」2002・9)で明らかにしただけで、ほとんど知られていない。講演の全貌は残っていないようだが、要旨は大阪版「毎日新聞」(昭和20・12・10)に掲載された。熟読玩味すべき内容豊富な講演だったと考えられる。郡司が全文を引用している。
「〝藝術の役目はわれわれの意識なり知覚なりと現実――つまり内的なリアリティーとの間のヴェールを破ることだ〟とベルグソンはいつてゐる、ヴェールとはわれわれの知性が張り廻らすもののいひである、人間ははじめに行動があり、次に行動を規制するものとしての知慧が生まれる、外的なリアリティーから政治的、社会的な生活に不必要なものを知性が取り捨てる、これがヴェールの役割なのだ、この幕を掲げて現実をぢかに魂で受けとめ、いはば言語に絶し色彩を超えた美的経験を、人間に与へられたところの限りある不自由な言葉を用ひ、絵具を駆使して再現するのが藝術なのである、かうした美的経験はまた現実の歴史の動かし難い生命を見出すのに大切な見方でもある
たとへば古事記をかういふ見方で再現したものが古事記伝である、美しい民族の神話だ、あの形に彼は感動した、古事記は一つの藝術作品だ、どこか間違つてゐるといふのでそれを合理的に解釈することは古事記の美しさをこはしてしまふ、かう考へてくると美的経験に対する信仰と実証精神とは些かも矛盾しない
国民が挙げて政治的にならうとしてゐるこれからの時代には歴史の真実の姿をゆがめられぬ形のまま掴むためにかういつた史観の把握は特に重要と思ふ、何故ならば将来はより科学的な歴史が教へられより実証的に歴史が分析されるであらうが歴史の現実の美に心打たれる精神が欠けてゐるとすれば史観によつてたじろがない厳かな歴史の姿は見失はれ、歴史以外には存在しない伝統といふものも忘れられがちになるであらうから」
小林が昭和三十年代以降に全力を注ぐことになるテーマがここですべて予告されている。ベルグソン、本居宣長の「古事記伝」、歴史と伝統。紙面に掲載された講演要旨だけでは、小林の意図は伝わらなかっただろう。講演を聞いた聴衆にとっても、同じだったかもしれない。しかし、小林の全文業が明らかになった後では、小林秀雄の「すがた」はここに凝縮されているのではないだろうか。