八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」(下)
敬遠された?白鳥の小説
「人間」は創刊準備中の総合雑誌で、その創刊号(昭和21・1)の創作欄に、白鳥の「「新」に惹かれて」はトップで載った。白鳥の後には、川端康成「女の手」、島木健作「赤蛙(遺稿)」、林芙美子「吹雪」、里見弴「姥捨」と並ぶ。新年号、創刊号にふさわしい豪華さだ。その白鳥の小説は、高見の日記に「「創元」に書いた原稿」とあるからには、小林秀雄からの原稿依頼に応えたものだろう。その原稿の束を白鳥は鎌倉文庫に持参したのだった。小林が断ったと考えればいいのか。「創元」の発刊が延びそうと聞いて、白鳥が渡さなかったのか。
ある時期から、白鳥の書く原稿は小説であれ、評論であれ、随筆であれ、白鳥の日々の「感想」を綴る日記のようになっていた。「「新」に惹かれて」も、まさにそれだ。落語の「欠伸指南所」をまくらにふって、「日々の生存が退屈で、欠伸の連続を試みたいような有様」だった青年期、「求新欲の強い人間には心も踊り立つ次第」だった西欧旅行などを自由奔放、気儘に回顧する不思議な小説だ。落語にたとえるなら、圓生ではなく、志ん生の「あくび指南」であろう。
白鳥は昭和二十一年の新年号には、原稿料がバカ高い「新生」に「戦災者の悲しみ」を、やはり創刊号の「潮流」に「変る世の中」を発表した。「戦災者の悲しみ」は文学全集に何度も収録されていて、この三作の中では一番まとまっている。三作ともが短編集の表題作になっている。創元選書から昭和二十二年(一九四七)に出る短編集『変る世の中』は河上徹太郎が収録作の選択を白鳥から任されているが、「「新」に惹かれて」は入れていない。小林の遺作は「正宗白鳥の作について」だったように、最晩年まで白鳥に関心を持ち続けた。それでも、「「新」に惹かれて」は「創元」には必要ないと判断したのか。
これまでわかっただけででも、七人(島木を含めると八人)の文学者に原稿を依頼していた。それだけではなかった。若松英輔が『小林秀雄 美しい花』で引用している、小林の堀辰雄宛ての手紙(『堀辰雄全集 別巻一 来簡集』に所収)は昭和二十年十月十九日付けで、これも原稿依頼である。堀は井伏、永井と同じく同人誌『作品』以来の友人で、つきあいは長い。堀宛ての文面は井伏宛て九月二十日消印の手紙と似た文面になっている。「文学季刊雑誌を編輯発行する決心」をしたこと、ジャアナリズムの「害毒」に対して、「真面目に文学的結実を集めこれに持続的に対抗する必要」を説いている。原稿料と原稿の条件も井伏宛てと同じである。違うとすると、「金御入用ならすぐお送りします」と「君もどうぞ身体にさはらぬ限度で御助力下されば幸甚です」という二点であろう。堀は戦争中から結核が悪化し、軽井沢で療養し、新作の小説は途切れていた。堀はすぐに承諾の返事を出し、小林は三十日付けで礼状を送った。堀宛ての依頼状には、「神西君にはプーシキン論を頼みました」という一文もある。チェーホフなどの翻訳で知られる神西清は小説家でもあり、堀とは学生時代からの長い友人だった。神西は鎌倉文士の一人なので、小林は直接会って、依頼したのだろう。
以上、わかった限りの名前を、私的に分類して並べてみる。小林にとっての偉大なる先達である柳田國男と正宗白鳥がまずいる。同世代の信頼する作家として、井伏鱒二、堀辰雄、永井龍男、島木健作がいる。歌人では吉野秀雄と会津八一がいる。高見順と神西清は作家だが、小林の依頼はロシア作家論だった。この中で、「創元」第一輯で実現するのは、島木の遺作と吉野の短歌連作だけだった。十人中の二人で、打率二割。いや、もう一人忘れていた。小林秀雄自身が満を持している。