八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」(下)

【連載第三回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

「一九六〇年の小林秀雄」

 実をいうと、私はこの「講演要旨」を以前に読んでいた。というのは、この郡司勝義の「一九六〇年の小林秀雄」は私が直接もらった原稿だったからだ。生前に未刊行だったベルグソン論「感想」が『小林秀雄全集』の別巻として刊行されるという「事件」があった時に、郡司さんに「小林秀雄のベルグソン」について書いてもらった。その打合せ場所として、国会図書館の喫茶室を指定されたことを覚えている。小林と同じく鎌倉の住人だった郡司さんは、国会図書館にベルグソン(現在の表記はベルクソン)の最新研究を探しに来ていた。「ベルグソンの新しい研究がどんどん出ているんだよ、君」と、薄暗い喫茶室で紀要論文のコピーの束を捲りながら嬉しそうだった。ベルグソンはいつのまにか「復活」していた。郡司さんの「一九六〇年の小林秀雄」を久し振りに再読し、この「講演要旨」に突き当たり、すっかりその内容を忘れている自分に呆れた。いったい自分は、何を読んでいたのだろう。

「一九六〇年の小林秀雄」によると、この講演は敗戦前にスケジュールが決まっていたという。十二月八日の日米開戦満四周年の日、当時の言葉でいえば「大詔奉戴日」の目玉講演であった。

「小林に「大阪毎日」の学芸部が、敗色の濃くなった初夏に、戦意昂揚の講演を頼みに来た。この講演のときの担当は小谷正一だったという。(略)しかし、間もなく敗戦となったので、土曜講座と名をかえて、とに角、惚れこんでしまった小林を引張り出した」

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