八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」(下)

【連載第三回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

正宗白鳥の登場

 昭和三十八年(一九六三)から小林が亡くなるまでの二十年間、小林の個人秘書的な役割を果たした郡司勝義は『小林秀雄の思ひ出』を始めとして四冊の著書と雑誌原稿を遺した。『小林秀雄の思ひ出』には、「その周辺(柳田國男との場合)」という章があり、「昭和二十年代半ば、柳田國男が七十歳をすでに越えたのを記念して、創元社が全集刊行の議を申入れ」、快諾されたとある。その一事を以てしても深い信頼関係はわかる。

 柳田の『炭焼日記』には、創元社の柳田全集の企画を譲渡される筑摩書房の古田晁(社長)と唐木順三(後の評論家)の名前も出てくる。柳田が敗戦前、一番力を注いで書いていたのは『先祖の話』だった。「『先祖の話』を草し終る、三百四十枚ばかり。/古田晁君へ手紙を出す」(昭和20523、「唐木君来る。『先祖の話』出したしという。一週間後に渡す約束」(昭和20627という記述を見つけた時、もしも『先祖の話』の完成がもっと遅れれば、と仮想した。小林が柳田を訪問した時に『先祖の話』が脱稿していれば、柳田が小林に原稿を渡す。「先祖の話」が「創元」第一輯に載る。小林が編輯に邁進している「創元」にふさわしいのは「先祖の話」だったのではと惜しまれる。『先祖の話』は日本人の霊魂観と戦死者たちの鎮魂が大きなテーマだったからだ。

 高見順日記の十一月十三日には、小林秀雄が尊敬するもう一人の「大物」が登場する。話題はずばり「創元」の原稿についてだ。

「出勤。/正宗白鳥氏が来ていた。「創元」に書いた原稿を「人間」に貰う」

 簡略すぎるので、説明が必要だろう。鎌倉文庫は日本橋に社屋を構えたので、高見常務はこの日も鎌倉から出勤した。受付には正宗白鳥の小柄な姿が見えた。白鳥は東京の家が戦災で丸焼けになり、軽井沢の別荘で暮らしている。原稿が書き上がると、リュックサックに詰めて上京する。知り合いの出版社に行っては、原稿を買ってもらう。そういう生活スタイルを送っていた。原稿の出前、原稿の行商人だ。白鳥の原稿なら読みたい、買いたいという編輯者は多い。この日、白鳥が持っていたのは短編小説「「新」に惹かれて」だった。

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