小林「武蔵」の「放言」と、大岡「老兵」の復員(下)

【連載第五回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

「創元」に載せるつもりだった「俘虜記」

小林にどやしつけられ、半年をかけて書いた百枚の「従軍記」が、「俘虜記」(現在の『俘虜記』の冒頭部分「捉まるまで」)である。小林は「創元」に載せるつもりで、大岡に「従軍記」の執筆を依頼した。しかし、「俘虜記」は「創元」ではなく、ずっと遅れて「文學界」(昭和232)に発表される。その間の事情は小説「再会」にはない。大岡が再三回想するところでは、吉田満の「戦艦大和ノ最期」が検閲でひっかかったために、「俘虜記」も無理と判断されたのだという。大岡は吉田満との対談「戦争のなかの人間」(「文藝春秋臨時増刊」昭和4812、『大岡昇平対談集』に所収)で、吉田に事情を説明している。

「ぼくは二十一年の正月に、鎌倉[伊東]の小林のところへいった。そのとき、かれは吉田さんの話[「戦艦大和ノ最期」]を知ってましたね、すでに。戦争の体験記でいいのがあるが、お前も書かんかとすすめられた。(略)私のは「創元」の二号に予定されてましたが、あなたの例[検閲で掲載不許可]があるので、出版社[創元社]がふるえたんです。ぼくのも米兵についての記載があって、戦闘行動が書いてありますからいかんだろうというので、出版社のほうで出さなかったんです」

 記憶力と事実の探究では徹底している大岡昇平なので、この発言の通りとは思うのだが、どうしても一つの疑念が浮かぶ。というのは、小林が日本銀行に入行した吉田満を突然、訪ねて来て、創刊号に原稿を頂きたいと申し込むのが四月一日だったからだ。エイプリルフールにせかせかと現われた小林秀雄。こちらも事実とすると、小林は「戦艦大和」の原稿を読んでから、作者に掲載を依頼するまで、二ヶ月半もあったことになる。性急な編輯へんしゅう者である小林が、そんな悠長なペースでいるだろうか。「戦艦大和」の作者の居場所がつかめなかったということはありえるが、吉田満の原稿は知人から知人の手に渡っていたのだから、連絡先を知るのにそんなに時間を要したとも思えない。どうでもいい些事なのだが、創刊号の「戦艦大和ノ最期」、第二号の「俘虜記」のいずれもが、幻の掲載となったことを編輯者・小林秀雄のために惜しむので、気になるのだ。それとも「モオツァルト」の執筆に取りかかると、小林の集中力はすべて原稿に向かい、編輯者小林は引っ込んでしまったのだろうか。

 昭和二十一年に入ると、次々と雑誌の創刊号、復刊号が市場に出回った。「近代文学」の創刊号は定価三円で、一万部が刷られた。売行きはペシミストの平野謙をして、「どうも俺達の雑誌が一番売れてるらしいや」と言わしめた(埴谷「「近代文学」創刊まで」)。「近代文学」の発刊計画は九月からだから、「創元」より後になる。スタートダッシュはよかった小林の「創元」は、遅れをとり始めている。

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