「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(中)
あまたの才能を育てた場としての「新夕刊」
「新夕刊」は「漫画新聞みたいになってしまうこともあった」と、林房雄は「私の履歴書」で書いている。それにはもう一つの事情があった。記事が検閲に引っかかると、その空白を埋める必要がある。その時には、横山隆一、清水崑、横山泰三の漫画が代役を果たしたからだ。「清水の崑ちゃんは全くの自由主義で、戦後右翼の「民主主義」への豹変ぶりをからかった漫画を書いたりするが、高源社長は笑ってそのまま発表させた」。
林は「高源社長は気前よく月給を出してくれた」とも書くのだが、どうだったのだろうか。「新夕刊」に連載された高田保の随筆「風報」が単行本(『いろは歌留多』)になった時に、永井龍男は「些少な稿料も滞り勝ちな中を」書いてくれたと詫びている。ドンブリ勘定の林とは違い、永井元副社長の回想のほうが実情に近かったのではないか。高田保は「新夕刊」の後に、毎日新聞で、その続編といえる「ブラリひょうたん」を連載し、人気を博す。林房雄が「白井明」名義で書いた匿名時評は、読売新聞に場所を変えて書かれた。清水崑は朝日に、横山隆一は毎日で「フクちゃん」を、さらに「サザエさん」まで含めれば、「新夕刊」は戦後の混乱期にあまたの「才能」を育てた場であった。
順調にいくかと見えた永井体制が終わるのは、昭和二十二年(一九四七)十月に、永井が公職追放令G項該当となったからだ。戦中の文藝春秋社で重役になっていたのが引っ掛かったのだ。十一月には、高源社長も公職追放となる。高源は「児玉機関本部幹部」だったためであった(『公職追放に関する覚書該当者名簿』)。新夕刊は、編集局長に秋山安三郎、社会部長に倉光俊夫といった体制で臨む。秋山と倉光は元朝日新聞で、秋山は著名な演劇記者、倉光は「連絡員」という作品で昭和十八年(一九四三)に芥川賞を受賞していた。