エイプリル・フール、「戦艦大和」の吉田満に会う(一)
小林と対面した吉田、「本物のすご味がそこにあった」
吉田満は昭和二十一年(一九四六)四月一日、「コバヤシ・ヒデオ」の出現を訝しく思った。『ドストエフスキイの生活』や「文藝春秋」に載ったエッセーの小林秀雄なら承知しているが、そんな高名な評論家が自分を訪ねてくる道理はない。吉田は学生時代に小林秀雄を「難解なところが魅力だと独り決めしていた一読者」に過ぎない。
「半信半疑で行ってみると、殺風景な受付の椅子の間に、小柄な人が立っている。銀白色の髪。静かな強い眼差し。それまで写真を見たこともなかったが、紛うことなき本物のすご味がそこにあった。わたしは文学青年であったことはないし、二年の海軍生活の空白があって、かつて学生時代に読みふけった本の世界からも、すっかり遠ざかっていた。復員して、就職してから、まだいくらもたっていないころである。/だからわたしは、本物のすご味にも気圧されずに、その人の前に進み出て普通に会釈をしたのであろう」(吉田「めぐりあい」)
吉田満は大正十二年(一九二三)一月六日に、東京の青山で生まれた。小林の二十一歳年下にあたる。府立四中(現・都立戸山高校)四年修了で、山の手のエリート子弟が多く通う東京高等学校に進んだ。府立一中(現・都立日比谷高校)から一高へと進んだ小林と似てはいるが、やや違ったコースを辿る。吉田満の父は名前を吉田茂という。ありふれた苗字と名前なので仕方ないが、戦後のワンマン宰相と同じだ。ワンマン宰相は息子・健一が後に「大和」検閲への抗議に関係する。満の父の吉田茂は商事会社のサラリーマンから独立して、電気設備の会社を興し、会社は順調だった。満は一人息子で、東京の恵まれた中産階級の子弟として育っていた。ムーランルージュが好きで、筆まめで、話し上手で、勉強をしなくても成績はいい。優等生というわけではなく、停学を喰らった反逆児でもあった。東京高等学校で友人となった志垣民郎は日記に、「彼は美貌で天才だ」と記した(前田啓介『戦中派――死の淵に立たされた青春とその後』)。