エイプリル・フール、「戦艦大和」の吉田満に会う(一)

【連載第十五回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

虚脱状態で復員した吉田と吉川英治の邂逅

東京帝国大学法学部法律学科在学中に学徒出陣となる。明治神宮外苑競技場で行なわれた出陣学徒壮行会は、雨中を行進する学生たちと、首相の東条英機の「天皇陛下万歳」で有名だが、あの行進に吉田満は参加していない。友人の志垣民郎の行進する姿は、「日本ニュース」の映像にはっきり残っている。吉田満は陸軍ではなく、海軍に入る。海軍兵科第四期予備学生となり、大学はいつのまにか繰り上げ卒業となった。レーダーを扱う電測を学び少尉に任官、昭和十九年(一九四四)十二月に戦艦大和に乗り組む。昭和二十年四月、沖縄特攻の「天一号作戦」では大和乗組員三千余名のうち、生還できたわずか二百数十人の中の一人だった。吉田少尉は本来の任務は副電測士だが、大和が米軍機の襲撃を受けた時には、哨戒直の当番だったため艦橋にいた。沈没までの二時間を、艦の全体状況を把握できる司令塔で過ごすという稀有な経験を持った。第二艦隊司令長官の伊藤整一中将、大和艦長の有賀幸作大佐の最期をもごく身近で見届ける。

 吉田少尉は漂流数時間後に救助される。いくつもの幸運が重なって、死の窮地から免れることができた。生還後、今度は自ら「特攻」を志願する。与えられた任務は高知県須崎の人間魚雷「回天」の特攻基地で、本土決戦に備える基地設営の仕事だった。虚脱状態で吉田は復員する。渋谷の家は空襲で焼失していて、両親は東京の西のはずれ、奥多摩の吉野村に疎開していた。吉田の家から歩いて十分ほどの場所には作家の吉川英治がやはり疎開していた。父の茂は人見知りしない性格で、吉川英治の家に出入りしていた。父は息子に『宮本武蔵』や『三国志』の大流行作家だった吉川英治に会うことを勧める。吉川は敗戦を機に、筆を断っていた。息子は父の勧めに素直に従う。すべてはそこから始まる。

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