小林「武蔵」の「放言」と、大岡「老兵」の復員(上)
ヒョーセツか翻訳か、本多の判定は
ごたごたの経緯を丁寧に追った後、本多は埴谷に代わって、「近代文学」同人の「義務」として、自分の意見を明らかにする。座談会当日は小田切が埴谷の代理人役(未遂)だったが、今度は、本多が埴谷の代理人となった。まさか埴谷が『死霊』執筆で手一杯ということはなかろうに。
「この問題については、本来埴谷雄高が意見を発表すべきだ、と僕は考えていた。なぜなら、カーの本を見つけ出してきて、小林の本と最初に比較対照したのも彼なら、それについての所見を「近代文学」同人に語り――それ以後の伝播過程で付け加えられた尾鰭については関知するかぎりでないとしても――とにかく今回の「噂」の火元をなしたのは彼だったのだから。しかし、埴谷はこの問題について正面切って議論する意志がないらしいし、(略)この問題について自分なりの意見を明らかにしておくのは僕の義務であり、それはまた「近代文学」同人としての義務でもあると思われる。(略)問題のカーの本は、埴谷雄高が対照書入れした、そのテキストを借りて読んだ。小林秀雄が、この本に非常に多くを負っていることは明らかだ。(略)カーの本が小林の第一の種本であるだろうことには疑いの余地がない。小林は、書中いろいろの引用について出典を明示しているのに、第一の種本についてだけ緘黙して最後まで語っていないわけである。(略)問題は、『ドストエフスキイの生活』の高さが、小林の素足の高さではなく、カーの下駄をはいた高さだったということで、それ以上でも以下でもない」
「近代文学」を代表して、かなり手厳しい検事ぶりである。しかし、その後は大人の対応に変わる。「常識」での判定となる。「カーの本さえあれば書けるという本でもなく、カーの本が翻訳されたら著者は顔を赤くしなければならない本でもない」。「小林は、『作家の日記』をドストエフスキイ理解の中心に置き、すべての伝記的事実をそこに向って注ぎ込むように書いている。良くも悪しくもそれが小林の特色だ。カーは『作家の日記』をそんなに重要視していない。両者の根本の相違はそれだ」として、ケリをつけた。