平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 男装はエロからグロへ
第十四回 男装はエロからグロへ
平山亜佐子
諜報員となり、戦後は尼に
その後の美那子はといえば、1932(昭和7)年から陸軍省恩賞課嘱託として働き始め、日露戦争の老兵や満州事変の傷痍軍人を満洲に入植させる活動を開始。また、満洲で「満洲帝国国防婦女会」を立ち上げた。その傍ら「ゼット帮〈ばん〉」と呼ばれる特別任務班にも所属し、板垣征四郎や今田新太郎の指示で動いた。
1938(昭和13)年に日本に帰り、東京で隠居生活をしていたが、ノモンハン事件が起こったためまたも渡満して王爺廟(現モンゴル自治区にある町)の野戦病院で看護をしつつ、天津の米沢機関に滞在。太平洋戦争が始まると、天津の外国租界などで情報を集めた。
1942(昭和17)年、東京に戻った美那子はこのままでは日本が負けると思い、大胆にも東條英機に進言して憲兵から暴行を受け、諜報活動から外される。終戦までは天津にあった大丸百貨店営業部の職に就いた。1946(昭和21)年に引き揚げた後、国務大臣の秘書を経て法華宗の宗教法人「大日本獅子吼教会」に入会。戦犯者の霊を弔うために有髪の尼となった。
軍国少女が長じて諜報員となり最終的には尼になった永田美那子のような女性が、一時は男装アイドルのように扱われたのだから、1930年代の男装ブームの大きさが知れようもの。
なお、1934(昭和9)年頃には女性店員に男装をさせるカフェーやバーもあったと、新居格が『女性点描』のなかで書いている。