谷川嘉浩 異世界系ウェブ小説と「透明な言葉」の時代
19世紀のロマンス小説との類似性
異世界系ウェブ小説にご都合主義的な側面があることは確かで、これはファンですら否定しないだろう。しかし、こうした特徴は、大衆小説にしばしば見られるものだ。
一例を挙げよう。19世紀後半のアメリカの「ワーキングガール」と呼ばれる劣悪な環境で働く女性労働者の間で、安価なペーパーバックの大衆小説が流行していた。彼女たちは、女性労働者が主人公のロマンス小説を読み込み、それについて職場で語り合っていた。しかも、それらは当時の文学者や文筆家からストーリー展開の安易さが批判されるような小説だった(こうした位置づけは現代の異世界ものとよく似ている)。
ワーキングガールは、同じ女性労働者階級を主人公にした小説でも、アメリカの小説家セオドア・ドライサー『シスター・キャリー』(1900年)のような、売春や破滅への道を描く悲劇的なリアリズムを好まなかった。彼女たちが好んだ「安っぽい」ロマンス小説は、主人公が次々と起こる事件を行動力と知恵で潜り抜け、ハラスメントや悪意には断固たる声を上げるような気高さを見せつつ、最終的には遺産が転がり込んだり、上流階級の男性に見初められたりするといった都合のいい展開を含んでいた。だがそれは単なる荒唐無稽ではない。そこには、忘れられた人々の「強さ」と「声」が描かれているからだ(山口ヨシ子『ワーキングガールのアメリカ』)。
英文学者の山口ヨシ子は、ワーキングガール向けのロマンス小説で主人公の気高さが描かれるとき、幻想的なまでに主人公の無垢や純粋性が強調されることに注目する。この強調は、現実の彼女たちがそれらを失う危険に満ちていたこと、あるいは少なくとも世間からそれらが欠けているとみなされていたことの証である。山口によると「ヒロインの絶対的な純潔性は、ロマンスゆえに可能になる現実との距離感」にほかならない(『ダイムノヴェルのアメリカ』)。
同じことが異世界ものにも恐らく当てはまる。異世界というファンタジーを通して初めて、資産・優位性・能力・豊かな人間関係など――後述の類型②~④に当たる――を得られるということは、現代日本社会においてそうしたものにアクセスできないと多くの人が感じていることの証左なのだろう。