「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(下)
忠君愛国か利権あさりか
岩川隆は児玉が初めて上海に来た時に出迎えた武井(柴田)龍男という人物の話も紹介している。武井は大川周明が主宰した大川塾出身である。児玉はブロードウェイ・マンションの部屋を五つくらい占領し、生活態度は派手だった。上海の海軍武官府には、児玉機関の買いつけ金額がでたらめだと批判する士官たちもいた。
「そりゃ航空物資の買いつけについてはいくらかの功績があるかもしれないが、それとても愛国心から発したものではない。でなければ一億の国民のほとんどが食うや食わずの状態におかれながらも勝利の日を信じて頑張っていたあのときに、あんな派手な生活ができる道理がありません。口では忠君愛国をとなえながら、カゲでは利権をあさる。人間のスケールが大きいといえばそれまでですが、素朴な庶民感情からするとどうでしょうか」
小林が林房雄に言ったという「ただ日本人として働いていただけだ」が、児玉機関に当てはまるのか。児玉機関には当てはまらなくても、高源重吉にだけは当てはまるのか。残念ながら、高源重吉の実像はなかなか浮かびあがってはこない。
高源重吉が上海脱出を試みているとき、児玉誉士夫は日本にいた。海軍航空畑の急先鋒で、特攻の生みの親ともされる大西瀧治郎海軍中将(海軍軍令部次長、前・海軍航空本部長)の自決を見届けていた。大西の後を追おうとする児玉に、大西は「バカモン」と一喝した。「貴様が死んでクソの役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて日本をつくるんだよ」(草柳大蔵『特攻の思想――大西瀧治郎伝』)
この時、児玉はまだ三十四歳だから、「若いもん」に入るのか。児玉は敗戦後にできた東久邇宮稔彦王の内閣で、大佛次郎、賀川豊彦といった著名人と並んで「内閣参与」となる。海軍と右翼を抑えるための人事だったといわれる。「右翼」児玉にとっては願ってもない箔付けになった。小林が高源重吉から「新夕刊」への協力を求められたのがこうした時期だった、ということは確認しておくべきことかもしれない。