「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(下)
【連載第八回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)
小林・永井・高源の京都三人旅
小林が高源重吉について記したり、話したりしている文献はいまのところ接したことはない。これはいかにも小林秀雄らしいといってしまえばそれまでだが、林房雄、田河水泡、横山隆一、清水崑などが次々にその名を出しているのに比べ、意外な気もする。経営者としての資質がある文学者だった永井龍男も、エッセイの中で「高源さん」を出している。
「思わぬ金が入った。三人では少し金額が心細いかも知れぬが、とにかく、懸案の京都行きを実行しようと、高源さんから話があって、小林秀雄と三人で「足もとから鳥が立つ」ように、京都へ出かけた。小林は案内役、私は会計係、高源さんは一切二人に委せて、ぜいたくは云わぬと約束した」(「紅葉の前」。初出未詳、昭和28年刊「四季」五号に再録、昭和30年刊『人なつこい季節』に所収)
「高源さん」が何者かはまったく書かれていないが、珍しい名前ゆえ、知っている人なら、ははあとわかる。三人の関係はほぼ対等な友人である。高原が探険映画をみようと提案するが、小林は「京都くんだりまで来て、あんた、なにも活動写真をみることはないでしょう」と反対する。高源は小林の失策を衝く。「それじゃあ、小林さんは、京都くんだりまできて、なぜ弁当を忘れるんですか」。高源はそう言って切符三枚を買う。この三人旅は永井の年譜で確認すると昭和二十四年(一九四九)なので、三人は「新夕刊」を離れたあとも交際が続いていたことが確認できる。