「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(下)

【連載第八回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

「温い心」の「近代的任侠客」

歌人の吉野秀雄も高源重吉について書いている。吉野は「新夕刊」には関係していないが、鎌倉文士のひとりだ。吉野は鎌倉の瑞泉寺にお墓参りに行く。

「開山堂の前、数十の梅樹――これはさすがにまだ開花には一ト月早い、――の間には、数百株の水仙が、予想していた通りに、各々花をかかげ、芳香を放っている。散り敷いた落葉の中から青い葉と清い花をみずみずしく打ち出す野生味は実にうれしい。夢窓が坐禅をした葆光窟から、垣根を跨いで、久米正雄の墓と高源重吉の墓をおがむ。久米さんに註は要らぬが、高源氏というのは、近代的侠客ともいうべき一人士で、わたしもいくたびかその温い心にふれて感動したことがある。「昭和三十年十二月七日歿」と彫ってあるから、つい先頃一周忌がすんだわけだが、その折のものとおぼしく、酒の瓶の供えられているところをいかにもこの人らしいと思った」(「続・艸心洞雑記」『吉野秀雄全集8』に所収)

 吉野は「温い心」の「近代的侠客」と評している。高源重吉の葬儀の模様は、小津映画の常連出演者で、「鎌倉文化人」の仲間入りをしている「浪人」菅原通済が書いている。

「その夜、林房雄サンたちと食事を一緒にしていたとき、豪傑浪人高源重吉君の急死を知り、着がえる暇もなく、永井龍男さんをさそって高源邸にお伺いした。/児玉誉士夫、吉田裕彦君等、そのみちの豪傑が深夜なのに馳せつけたのは勿論だが、小林秀雄、今日出海君等、ものぐさ太郎の文士連が、奥様ともども見えられたのは、故人の徳というものだろう」(菅原「弱い奴が好き」「新文明」昭和317

 林房雄はその席で、高源の戦後すぐの借金一万円話を披露している。「マーヂャンで敗けたから一万円貸してくれ」だった、と。とんでもない賭け金の麻雀である。とても素人衆ではない。菅原通済は『ヨカバイ大臣』という本では、高源を「支那豪傑」「酔っぱらいの標本」と評し、もっとドギツイ表現もしている。「どのみち、ピストルか機関銃かドスかでアッサリ討死する筈のところ、中気でパッタリ息が絶えた。まだしも血を見なかっただけ、あと始末がよかったというものである」。

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