単行本『無常といふ事』がやっと出る(四)
【連載第十四回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)
「当麻」のお手本のような修整
現行版よりも緊張感がうすいと感じられる。自分が能の初心者であることにかかずらわっている。冒頭のこの改稿は「文章読本」のいい例に使えそうな修整のお手本ではないか。その後の大きな直しは終盤に集中していた。あの「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩す現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない」は初出ではどうなっていたか。
「「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」彼[世阿彌]の教には、美しい形を編み出そうとする自然人の真実さが鳴り響いているのであり、彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩す現代の美学者の方が、皆戸惑っているのである」
花はどこへ行った、と読者は探してしまいたくなる初出の文章だ。美しい「花」がこれでは焦点を結ばない。
二篇目の「無常といふ事」の直しは最小限だった。河上徹太郎が『有愁日記』で、この一篇は「マニフェスト」であり、小林の「覚悟のすべてがある」といった気迫は、初出で全体に浸透している。目立つ直しは、川端康成に喋りかけた「生きている人間なんてものは[単行本では「人間などというものは」]、どうも仕方のない代物だな」という言葉の前に川端の表情を描写するくだりくらいだ。
「彼[川端さん]も屹度覚えていてくれているだろう。聞いて、彼はそんな風に笑ったから」
ここは改稿では、「[川端さんは]微笑って答えなかった」と短くなっている。
続く「平家物語」(「文學界」昭和17・7)と「徒然草」とは雑誌発表時とは順番を替え、「徒然草」が三篇目になり、「平家物語」が四篇目と入れ替わる。どちらも大きな直しはない。