戦後初原稿「政治嫌ひ」が「新夕刊」創刊号を飾る(上)

敗戦・占領の混乱の中で、小林は何を思考し、いかに動き始めたのか。
編集者としての活動や幅広い交友にも光を当て、批評の神様の戦後の出発点を探る。
小林の真の「戦後初原稿」と座談会プレイバック
「旧式政治が終り、新式政治が始まらうとしてゐる、政治の大空目指して、いろ/\な旗印しをつけた風船玉が賑やかにあがり、政治を談ずる人々が、何となく偉らさうに見え、利巧さうに見えるのも無理もない次第である」
昭和二十一年(一九四六)一月二十一日に発刊された「新夕刊」の創刊号に載った小林秀雄の原稿「政治嫌ひ」の冒頭部分である。表裏で全二面の新聞の二面左側の隅に、二重罫で囲まれて載っている。単発のコラムという扱いだ。字数にしてわずか八百字程度だが、これが公的になされた小林秀雄の「戦後第一声」「戦後初原稿」で間違いない。小林のコラムの右隣りには、横山隆一の「君恋し」という四コママンガの連載第一回が載る。スペースはこちらの方がやや大きい。
文末には「(一月十八日)」と執筆の日付けが明記されている。「近代文学」のインタビュー「コメディ・リテレール」が行なわれたのが一月十二日だから、その六日後となる。「政治嫌ひ」の内容は、「近代文学」のインタビューとの関係が大いにある。「近代文学」同人の本多秋五が小林追悼号の「文學界」(昭和58・5)に書いた「『コメディ・リテレール』座談会のこと」が、その辺の事情を明らかにしてくれる。第二章を書く時、この本多の文章をすっかり失念していた。この文章に沿って、もう一度、座談会当日の様子をプレイバックしたい。
一月十二日、座談会が行なわれたのは「丸ビルの南の昭和ビル」にあった新経済社という雑誌社の別室だった。新経済社は「近代文学」同人の埴谷雄高が昭和十六年(一九四一)から敗戦の日まで勤めていた雑誌社で、その部屋を借りて行なわれた。本多は書いている。
「小林秀雄は酒を飲まさねば喋らぬという噂だったので、酒、肴を用意して行った。何もかも闇で各家庭が遣り繰りしていた時代のことなので、皿や盃や調味料の類まで手分けして運んで行った。(略)こちらは酒を飲む余裕なんかないから、飲んだのはほとんど小林氏ひとりだったろう。/午後二時にはじまった座談会が薄暮に終って、ビルの内庭へ出たとき、そこの堆い瓦礫のなかで小林氏は立ち小便をしたが、足もとがふらふらしていた」
小林はそれから日本橋小舟町の創元社に赴く。約一キロの道を送るのは、親戚の平野謙の役目だった。本多たちは御茶ノ水にある近代文学の事務所に戻り、「六人斬りの惨劇」に遭ったと口惜しがり、「何たる腑甲斐ないことか」と平野もまじえての「残念会」となった。「近代文学」六人衆との対決の場で、しらふの面々を相手に、酔いにまかせて小林は舌鋒をさらに鋭くしていたのだった。