戦後初原稿「政治嫌ひ」が「新夕刊」創刊号を飾る(上)
たっぷり直しが入った座談会原稿
無駄話が長くなってしまった。昭和二十一年の一月、本多は座談会から「数日たって」校正原稿を貰いに鎌倉の小林宅を尋ねる。鎌倉住まいの巌谷大四が一緒に行ってくれた。巌谷は戦時中は日本文学報国会の事業課長をつとめ、いまは鎌倉文庫に勤めていた。後に河出書房の「文芸」編集長となり、小林の「政治と文学」(「文芸」昭和26・10~12)を貰うことになる。本多は大晦日に平野謙とともに小林の家を訪問したばかりだから、一人で行ってもよさそうなものなのに、巌谷に同行を求めている。小林をいまだに警戒していたのではないか。小林の部屋には梅原龍三郎の六号くらいの画がかかっていた。「えらいものがあるな」と感じる。
「例の[大晦日に通された]六畳間のつき当りの壁に棚があって、その上に載せたのと、入って左手の襖に立てかけたのと、梅原龍三郎の画が三~四枚あった。唐三彩の壺にバラか何か活けたのもあったかと思うが、いわゆる天壇――祈年殿の尖塔を傾斜させて描いた一枚だけがはっきり記憶に残っている。明の染付の湯呑み、室町の盃なども見せられたが、スキタイの黄金の装飾品を見せてもらったのもそのときのことだったろう。こちらはスキタイの装飾品のことなど何も知らなかったから、手に取って見せてもらうことも思いつかなかった」
本多が観察する小林家の様子には、敗戦後の混乱は感じられない。鎌倉が戦災をまぬがれた故だったのか。梅原龍三郎の画については、小林は未発表の原稿を昭和二十年一月に執筆していた。座談会の直しはまだ出来上がっていなかった。本多に対して、小林がやさしかったのは、座談会後に「あの連中はよく勉強しているぞ」という感想を持ったせいかもしれない。本多は後に、小林の従弟の西村孝次から、小林が座談会後に洩らした感想を知らされた。小林の直しがたっぷり入った座談会原稿を本多が受け取るのは、翌日となる。
「指示された通り創元社へ行って、小林氏から直接原稿を受取ってきたが、[編集室に]帰ってその原稿を見て、またびっくりだった。全文書き換えの個所がいたるところにある大訂正で、われわれはこのとき速記の訂正はこのようにするものだという偏見を植付けられてしまった」
小林は創元社には週に一回出勤していたから、この日は座談会当日の一週間後の一月十九日だったのではないか。「新夕刊」の「政治嫌ひ」執筆が一月十八日なので、「政治嫌ひ」は速記の直しと同時進行で書かれたと思われる。