戦後初原稿「政治嫌ひ」が「新夕刊」創刊号を飾る(下)
「新聞小説は読者本位で書け」
第二の俳句では、まず久米三汀(久米正雄)、久保田万太郎が登場する。鎌倉文化人であり、作家・劇作家の大御所であり、俳人でもあった二人だ。以後、俳人たちが随筆を書き、俳句を詠む。水原秋櫻子、中村汀女、富安風生、松本たかし、飯田蛇笏、石塚友二など。「新夕刊俳句会」というイベントを後楽園で開く。秋櫻子、万太郎、三汀、風生、東門居が選者になっている。永井東門居による俳句愛好者の取り込み策だ。
第三は芸能記事で売った戦前の「都新聞」に倣ったかのようだ。歌舞伎では守田勘彌・水谷八重子夫妻、松本幸四郎、新派では花柳章太郎、喜多村緑郎、映画界からの大谷竹次郎、森岩雄、山本嘉次郎、小津安二郎、高峰三枝子、夏川静江など。他にも長谷川伸、徳川夢声、古賀政男などがいる。
小説の連載は、林房雄の「西郷隆盛―孤島の巻―」(挿絵・岩田専太郎)と真船豊の「忍冬」(挿絵・横山泰三)であった。林の大河小説は創元社から出ていた。劇作家で、小林の骨董仲間でもある真船の連載は自伝小説である。真船の別の小説『孤独の徒歩』には、小林秀雄が真船に意見する姿も出てくる。
「私は、「忍冬」という小説を書き出した。当時文化人達が集って発行した、「新夕刊」という新聞に書いた。長いこと連載しているうちに、新聞連載に向かないと云われて、途中で止めさせられた。なるほどそういうものか、と私はその時よく分った。――「ひどいもんだな。人に全然、気をつかわないでさ、よくもああ、手前勝手なことばかり、書けたものだ。......こんな小説を書く作家は、今の時代には、一人も居ないよ......。」と、この新聞を、ひろい読みしていた小林秀雄が言って笑った。――そう云えば私は、全く新聞などということを、書いているうちに、すっかり忘れてしまったのである。――そして戦争から敗戦にかけて、自分の衝撃を受けた深刻な問題を、私は、あらいざらい、この小説で打ちまけたのだった。――」
小林は笑いながら連載打ち切りの引導を渡したのだろうか。新聞小説は読者本位で書け、と小林が真船を諭したと読める。真船もこれには納得した。「忍冬」は連載百五回で打ち切りとなった。単行本は昭和二十二年(一九四七)八月に木曜書房という版元から出ている。創元社ではなかった。