戦後初原稿「政治嫌ひ」が「新夕刊」創刊号を飾る(下)

【連載第十回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

小林の中にあり続けた、文学者の批判精神

 私は前回、小林が「政治嫌ひ」で「旧式政治」を「新式政治」と同様に批判したと書いたが、それは、翌年のこの「新春随想」の筆致を勘案したからだった。昭和二十四年の「私の人生観」では、最後で「戦争指導者達」や「少壮軍人達」に言及する。ここでは、小林は彼らへの追及の手を緩めているように読める。日本の敗戦には「私達の背負った伝統の荷は重いのだ」という言い方を許している。「戦争指導者達」の破綻に、「近代政治的観念の空転と焦躁」を見、「少壮軍人達」の「暴挙」に「読み囓った近代思想」の痕跡を認めている。それらに比べれば、「為政者達の奇怪な政治的過失」には救済の余地がないのではないか。

 昭和二十六年の「反省と自覚」(「読売新聞」昭和26・1・8)では、「東亜共栄圏」という言葉が「詐欺師等によって使われた」という強い批判が復活している。この文章は、「反省」と「自覚」は違う、戦争を一事件として「反省」するのは理智で可能だが、「私達が演じた大きな悲劇として[戦争が]自覚されるには強い直観と想像力を要する」とする。その時、「東亜共栄圏」という言葉は「日本人の悲劇的な運命を象徴してもいる」と、「も」を付加している。「詐欺師」の専有物ではなかった、と。「東亜共栄圏」から小林は草野心平たちと共に実現に努力した大東亜文学者大会の理想を想起しているのだろう。

 同じ昭和二十六年の「政治と文学」では、「蟲」がまた出てくる。「私には政治というものは蟲が好かないという以上を出ない」と。ここでは、文学者とは、と語る。「文学者とは、この蟲の認識育成に骨を折っている人種である」。

「政治的には無智な一国民」だった小林の「黙って」と「黙々」は、文学者の批判精神としてあり続けた。昭和十四年(一九三九)の「満洲の印象」にある「この事変に日本国民

は黙って処した」と、同じく昭和十四年の「疑惑Ⅱ」にある「国民は黙って事変に処した」とは、それとは別に考えるべきかもしれない。「一国民」の小林は、かなり例外的な存在だからだ。

(引用した「新夕刊」掲載の小林秀雄の文章と発言の探索については、日本新聞博物館の協力を得ました。感謝いたします)


※次回は10月27日に配信予定です。

平山周吉(ひらやま・しゅうきち)
雑文家
1952年東京都生まれ。慶應義塾大学国文科卒業。出版社で雑誌、書籍の編集に長年携わる。著書に『江藤淳は甦える』(小林秀雄賞)、『満洲国グランドホテル』(司馬遼太郎賞)、『小津安二郎』(大佛次郎賞)、『昭和天皇「よもの海」の謎』、『戦争画リターンズ――藤田嗣治とアッツ島の花々』、『昭和史百冊』がある。
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