戦後初原稿「政治嫌ひ」が「新夕刊」創刊号を飾る(下)

【連載第十回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

「我れ事」か、「我が事」か

 この年、小林は久保田万太郎と真船豊のために、それぞれの公演パンフレットに寄稿している(「嵯峨沢にて」「真船君のこと」)。俵屋宗達についても「光悦と宗達」を書いている。この昭和二十二年に発表された文章は数少ないので、座談会発言も、小林の関心を忠実に反映していると考えられる。その昭和二十二年の一月三日の「新夕刊」に発表されたのが「新春随想 我事に於て後悔せず」だ。一面の左上に七段を使って掲載されている。四百字原稿用紙に換算すると五枚弱となる。文末には「(十二月廿九日)」と脱稿の日付けがある。

「宮本武蔵が死にのぞみ、独行道十九箇条を書して、これに辞世の心を託したことは有名

な話である。その中に『我事に於て後悔せず』といふ一条がある。菊池寛氏は、人に揮毫を請われると好んでこの文句を書いてをられたが、氏はいつも『我れ事』と書いてをられた。僕は『我が事』と読む方がよいと思つてゐる」

 小林の読者なら、すぐに思い当たるエピソードだ。菊池寛が揮毫していた宮本武蔵のこの言葉を、小林は『私の人生観』(昭和2410、創元社)の中で語っていた。さかのぼれば、戦前の「菊池寛論」(「中央公論」昭和121)でも、簡単に触れている。その時は、「我れ事に於いて後悔せず」と小林は読んでいる。それが戦後の「私の人生観」になると、小林は武蔵の言葉を「我れ事」ではなく「我が事に於いて後悔せず」と読む方がいいと宗旨替えする。「我れ」か「我が」かは小さい事のようにも思えるが、小林は大きな違いを見る。その読みの変更は、昭和二十二年の「新春随想」の時点で既に「我が事」を採っている。小林は「我れ事」と「我が事」を切り分ける。

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