戦後初原稿「政治嫌ひ」が「新夕刊」創刊号を飾る(下)
教祖・小林を弁護する林房雄のコラム
林房雄は「西郷隆盛」の後、昭和二十二年に入ってからは、一月末から十月まで、「文芸日評」というコラムを連載した。この連載は他の随筆と合わせて『我が毒舌』という本となり、昭和二十二年十二月に銀座出版社から出た。私はこの本で、小津が「新夕刊」に「映画と連句」という「楽しい文章」(林の評言)を書いていることを知ったのだった。『我が毒舌』を読むと、林は「新夕刊」のコラムで小林に何度も言及している。
「小林秀雄氏がひどく困ったような顔をしている。/「困るね、あれは、どういうことになるんだい、いったい?」/「文芸」三月号巻頭のコバヤシ・ヒデヲ「シガ・ナオヤ論」のことである。/なるほど困るだろうと私は思う。私の所に来る学生諸君もみな小林秀雄が左翼カナヅカイに改宗して志賀直哉論を書いたと思っているからだ。/小林秀雄のスタイルに少しでもなれている者にはコバヤシ・ヒデオが小林秀雄でないことはすぐに解る。だが、そこまで小林秀雄を読んでいない読者が絶対多数であるのだからコバヤシヒデオの出現は小林秀雄にとって困ったことにちがいない」
この珍騒動は二年後に小林自身が「同姓同名」という随筆で書く。「小林英夫という言語学者」だったと。困った小林をすぐに救ったのは、林の「新夕刊」コラムだった。坂口安吾の小林秀雄批判「教祖の文学」(「新潮」昭和22・6)が出ると、林は「教祖論」を書いて、すぐに応じた。
「左の八軒長屋で中野重治宗の邪教性があばかれはじめたと思ったら、今度は右の別荘地帯で小林秀雄もまた邪教の教祖だと坂口安吾が言いだした。このところ宗教界多事、これも「日本民主化のプロセス」という奴の一つであろうか」
安吾の小林批判の毒を薄めるためか、まずプロレタリア文学出身の中野重治と小林が並列される。元横綱の双葉山が逮捕された璽光尊事件など、当時は新興宗教の騒ぎが多発していた。林は安吾の小林批判を持ち上げつつ、執筆意図を憶測する。
「坂口安吾「教祖の文学」...(新潮六月)は、小林秀雄論としても、作家対批評家の問題としても、坂口自身の文学信条の放出として眺めても、それぞれの意味で面白い。彼の奇妙な小説類が、これだけの決心と理論の上に光って書かれているのだとすれば相当なものだと言わなければならない。尤も作品は、決心や理論とは別である。おそらく「理窟はどうであろうが、坂口安吾の小説なんかデッチ物のハニワ人形だ。鑑賞に堪えん。」くらいなことを骨董派の教祖小林秀雄が放言したので、新戯作派のルーテルたる安吾和尚大いに怒って逆破門状をローマ法王につきつけるという一幕に立ち到ったのであろうか」
林は、安吾に半ば賛意を表しつつ、小林を弁護する。この「教祖論」はいつもの「文芸日評」と違い、何日にもわたって続く長い弁護論となった。その末に結論で書く。
「坂口安吾は、「教祖の文学」の一文によって小林から独立した。即ち彼自身一山の主になり、坂口教の教祖になった。みんながそれぞれ教祖になれば、小林秀雄の教祖性をうらやましがることも、口惜しがることもいらぬ。文学修業とは各々の作家が、一日も早く教祖になることの修業である」
林房雄の「日評」としては、いつもの毒舌が影を潜め、「新夕刊」の象徴である小林秀雄教祖を防衛する意識が強く出ている回となっている。小林が林房雄のこのコラムの内容に関与したとは考えられないが(「コバヤシ・ヒデオ問題」では迷惑していたので、関与したかもしれない)、林の「小林尊し」が露出しているコラムとなっている。